黒田家文書2巻における「圧切長谷部」について
黒田家文書は、福岡市博で販売している、黒田家のお手紙などを現代語で載せた本です。
全3冊ありますが、特に2巻に長谷部の情報があるということで拝読しました。 2巻には、慶長九年(1605年)~延宝五年(1678年)までの黒田家に残る手紙類が収録されています。
後の話が分かりやすいように黒田家のざっくりした系図を載せます。
--------------- 孝高(官兵衛) │ 長政 │ 忠長(忠之)―長興─高政 │ 光之 --------------- へし切は、恐らく孝高→長政→高政へ渡っています。
この本で印象的だったのは長政→忠長への微に入り細を穿つ指示の手紙。単身息子を江戸に送り出しているので、心配だったのは分かるのですが、それにしても箸の上げ下げまで事細かに指示してます。
面白いのが、忠長→光之に対してはそこまでの細かな指示はしておらず。
自分がアレコレ指示されて耳にタコだった経験からやや放任主義なのではないかと想像しました。
この文書を見るに、孝高は大雑把だったんでしょうが、長政はどちらかと文官的な細かい性格、忠長はそこまで細かい人では無かったんじゃないのかなと思います。
でさっそく長谷部ですけれど、まず以下に記述があります。
P111、元和9年(1654年)「金銀道具の帳控え」 これは長政の遺言帳の中で、財産分与について記した文章になります。
黒田高政(官兵衛)へ「へし切の刀」を遣ると記載しています。
高政は三男なので、長男である忠長では無く、弟の高政(黒田官兵衛、東連寺藩主)にへし切を与えたということになります。ただ、同様の遺言で、高政には大名になるよう遺言していますので、それなりの名刀を与えたと考えられます。
高政は東連寺藩主でしたが、その後二~四代目の藩主が福岡藩から跡目が出されたためか、へし切は結局福岡藩に戻り、福岡市博物館に戻りました。
P234、元和9年(1654年)「日光一文字刀之拵注文」 これは黒田忠之が日光一文字の太刀の外装を注文したものです。
あれこれ注文した後、わざわざ「右ハへし切之刀に少もちかひ不申様に可被仕候」と書いており、つまり「へし切と全く同じ拵えにしてね」という指示です。
※邪推すると、弟に譲られたへし切が本当は欲しかったのかな…とか。
(しかし、ご存知の通り日光一文字とへし切の拵えは別です。なぜかは分からない)
なお日光一文字は黒田如水が天正18年、秀吉に対する北条氏の降伏の仲立ちをした礼として、北条氏から送られています。その後、如水が忠之へ譲りました。
第二巻から追えるへし切の足取りは以上になります。 へし切の、家中での扱いが見えるので、こういった資料を確認するのもためになりますね。
なお福岡市博のミュージアムショップで通販出来ますので、遠方の方も是非どうぞ。